uraraのブログ

現在の心情を詩に書いたり、知っていることを詩に書きたいと思います

この世の定め

                                                            九頭竜湖1


思えばもうすでに還暦を
四年も過ぎたりし
人生とは長いようで短きけり
不思議なことに
精神だけはいまだに若し
四十歳ぐらいの感覚しかなきにけり


肉体は年なりに衰えていくなり
五十を過ぎたりしは
体力が落ちてきたような気がしたけれども
六十を過ぎたりしは
かなり体力が落ちているなり


若き時は良かりし
それなりに体力がありて
無理な事でも何事も平気で
やれたものでありけれど
「諸行無常」
いつまでも現は続かぬ
それがこの世の定めなり


人の一生は「光陰矢の如し」なり
いつまでも若くはなきにけり
かと言いて
悔いのないように
人生を送ることもしなかりし
年を取るごとに
何事もどうでもよくなりていきけり


父が他界し
母が他界し
いつまでも居てはくれぬなり
それがこの世の定めなり


古きは廃れて消え
新しきが生まれ育成するなり
それがこの世の定めなり


年老いて悩み、苦しみ、迷い、いでること少なかり

 国道158号線  岐阜県と福井県の県境の福井県側には九頭竜湖を経て恐竜街道に繋がる


若き日々
ちょっとしたことで感情沸き上がり
思い出しただけで怒り来て
そうかと思えば
悲しみ思いいでて涙ぐむ


若きころ誰でも感情熱きなりけれど
悩み、苦しみ、迷いいでること多きあり
若き日々の私は何だったのだろうか
感情とはいったい何だろうかと考えし時
肉体から湧き上がる衝動であると思いけり
肉体が元気であるがゆえに衝動が沸き上がることなり


年老いて
肉体衰え
肉体の衝動
湧き上がること少なくなり
怒り少なく
悲しみ思いいでて涙ぐむことも少なく
悩み、苦しみ、迷い
いでることも少なかり
何事も冷め
やりたきこと僅かになり
おいしき食事にも心奪われず
心落ち着き
この世を去りしとき
わが人生に悔いはなし、と逝きたき候


孤独なりとも自由あり

              鈴鹿山脈から養老山脈を見る


若き日の二十代の終わり
孤独になりつつ
寂しさに
涙ぐみ
人生の迷い道に入りけり


迷い道になれども
お釈迦様に寄り添い
仏教の本を読みふけり
お釈迦様の教えに
感動し
孤独感無くなり
我が身に
自由を見出すなり
それ以来
寂しさに
涙ぐむことなきにけれ


我が身
孤独を愛し
自由を愛し
人とは違う人生なりけれど
我が人生
孤独なりとも自由あり




○○さんへ
他人のための祈りはどのようにやればよいのですか・・・・・の件について
○○さん、何回もコメントありがとうございます。○○さんの探求心には敬服しております。


他人のための祈りは熱意、誠実、持続を必要とします。それがなかったら他人のための祈りはできません。何とかしてあげたい、少しでも良くなってほしいという思いが祈りをする人の潜在意識下で働かないと他人のための祈りはできません。


他人のための祈りは利他主義であり、新約聖書に書いてあるように「自分のために祈りをすることなく、他人のために祈りなさい」です。どういうことかと言うと「自分のために祈りをすることなく」とは自分の益のために他人のことで神に祈りをしないとうことです。


したがってどんなに素晴らしい祈りの言葉を使って他人のための祈りをしても利他主義が祈りをする人の潜在意識下で働いていなかったら他人のための祈りはできません。他人のために祈る時は利他主義になって神に一生懸命祈ることです。一生懸命やれば眠気に負けずに感情の脳波がシーター波になって右脳で祈りの言葉を唱えるようになります。


心の状態は常に変化します。このことはいつもベストの心の状態で利他主義による他人のために祈りをすることはできないのです。祈りをする時、感情の脳波がシーター波で右脳による祈りの言葉だけを唱えれば他人のための祈りができるというものではないのです。


しかしながら他人のためとは関係ない自分のための祈りは利他主義に関係なく座禅と同じで神から癒しのエネルギーの外気が脳天から入って来るだけです。自分のための祈りは神様、仏様を意識して座禅をするのと同じです。


他人のための祈りのやりかた


祈りのやり方は正座して手を合わせ神を意識しながら祈りの言葉を唱えます。祈りの言葉は口に出して小声で唱えるか、心の中で唱えます。心の中で唱えた方が潜在意識で祈るようになりやすいです。


祈りの言葉はどんなものでもよいのですが、仏教で使う祈りの言葉、念仏、真言の祈り、その他色々ありますが、神様・仏様への祈りの言葉を唱えながら神様・仏様を意識します。その後に「Aさんの状態が少しでも良くなりますように」と言葉を付け加えてAさんを意識します。それを何十回から何百回と繰り返して祈るだけです。


聖書の祈りの言葉を使っても良いのです。新約聖書や旧約聖書はキリスト教徒やユダヤ教徒だけのものではありません。宗教を問わず全ての人のものです。


例として、神への祈りの言葉の「天にいますわれらの父よ・・・・・私たちを悪しきものからお救いください」で神を意識します。その後にAさんを意識して「Aさんの状態が少しでも良くなりますように」と祈ります。それらを繰り返して40分から一時間ぐらいかけて百回近くの祈りの言葉を使って祈ります。


念仏の場合、仏様を意識しながら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と五回ぐらい唱えてその後にAさんを意識して「Aさんの状態が少しでも良くなりますように」と唱えます。それらを繰り返して40分から一時間ぐらいかけて百回近くの念仏を使って唱えます。


Aさんのはっきりした姿形、性別、住所、生年月日がわからなくても神とAさんを意識して誠実な他人への祈りをしていれば神は癒しのエネルギーである外気をAさんに送ってくれるのです。人間の姿形に実体性などありません。性別、住所、生年月日も他人のための祈りにおいては必要ありません。神は姿形、性別、住所、生年月日や中身の情報は他人のために祈りをする人も祈られる人も知っているのです。


Aさんの姿形をはっきりしたイメージを使って祈りをすると右脳が働き、それがお邪魔になって祈りの効果が半減します。右脳を使っている時は祈りの言葉だけでよいのです。


〇Aさんのような人が大勢いたのなら、神への祈りの言葉の後の「Aさんの状態が少しでも良くなりますように」を「今日、見た大勢の人たちが少しでも良くなりますように」に変えてあなたが見た大勢の人のために祈ればよいのです。神は癒しのエネルギーである外気を大勢の人の身体に同時に送ってくださるのです。


〇人から聞いた話でも神への祈りの言葉の後に「あの時、あの人たちが話していた体の状態の悪い人が少しでも良くなりますように」と祈れば体の状態の悪い人の身体に神は癒しのエネルギーである外気を送ってくださるのです。


〇また、Aさん以外にAさんの知り合いに体の状態が悪い人がいれば、「Aさんの状態が少しでも良くなりますように」の後に「また、Aさんが知っている体の状態が悪い人が少しで良くなりますように」と付け加えて祈れば神は癒しのエネルギーである外気をAさんとAさんが知っている体の状態の悪い人の身体に神は癒しのエネルギーである外気を同時に送ってくださるのです。


Aさんが知っている体の状態の悪い人が20人いればその20人にAさんと同時に神は癒しのエネルギーである外気を送ってくださるのです。AさんとAさんが知っている体の状態の悪い人のために祈りをする人は神が癒しのエネルギーである外気をAさんが知っている人の誰に送ったのかはわかりません。「神のみぞ知る」であるのです。


〇Aさんの傍に関係者がいれば「Aさんの状態が少しでも良くなりますように」の後に「また、Aさんとその関係者が知っている体の状態が悪い人が少しで良くなりますように」を付け加えて祈ればAさんとAさんの関係者が知っている体の状態の悪い人が何人いても、AさんとAさんの関係者が知っている体の状態の悪い人とAさんの身体に神は癒しのエネルギーである外気を同時に送ってくださるのです。Aさんの関係者には外気は送られません。


上記のことは新約聖書に書いてある「すべての人が神に知られている」を証明しています。


神が体の状態が悪い人を知っているのであれば他人のための祈りをしなくてもその人たちに神が直接癒しのエネルギーを送ってくださればよいのではないか、と思われがちですがこの世に生まれた以上、この世は天のように神に保護されているのではありません。自分達のことは自分達でやるのがこの世です。


誰かが他人のために神に祈りをしなければ体の状態の悪い人に癒しのエネルギーである外気は送ってくださらないのです。或いは体の状態の悪い人自身が直接神に祈りをするか、神を意識する座禅をして癒しのエネルギーである外気を神に送ってもらうしかないのであります。これがこの世の祈りの法則であります。


前のコメントで書いたように、Aさんでも大勢の人でもその人たちが夜眠っている時間を想定してその眠っている時間に祈れば祈りによる癒しの効果は抜群になります。


以上、私の知っている祈りを書きました。うらら。